2011年06月14日

原発に対する「もやもや」「ジレンマ」「閉塞感」

原発については様々な人が様々な場所でたくさんの発言あるいは行動をされている。僕なりに原発に対する「苛立」と言うか「もやもや」「ジレンマ」「閉塞感」のようなことを書いてみることにした。


〜〜〜〜〜
その(1)2通りの人災説

原発の爆発直後に「原発事故は人災である」と咄嗟にツイッターでつぶやいた。この事故が自然災害の延長として捉えられたのではたまらないと感じたからだ。震災から3ヶ月が経って、この「人災」と言う言葉が、どうも二つの意味合いで使われているような気がして注意しなくてはいけないと思っている。

ひとつは原子力発電自体は安全なものだけれども「人による事故への対応に問題がある」あるいは「人の想定に問題がある」として、だから「人災である」と言うふうな意味で使われる場合。これは【原発推進派による人災説】である。

もうひとつは、この事故は地震津波の自然災害ではもちろんなく「原子力発電を造ってしまった人間による災いである。」「原発を推し進めてきた人達による災いである。」という意味での「人災」。僕はこちらの意味でつぶやいたのであり先の解釈とは大きな差がある。【原発反対派による人災説】であり、「人災」という意味をもっと広く捉える必要があると考えている。

後者の場合(〜と言うか後者であるべきなんだけれど〜)、当然この責任は原発を推し進めてきた人達が責任をとるべきだと言う結論に至る。つまり原発を推進することにした古い自民党代議士、経済産業界の面々、お抱え学者、マスコミ等にも責任があるのであって、現東電社長や社員だけに全責任があるかのように言うのは片手落ちのように思う。

賠償内容は故郷を追われた人達には東電社長の年収を一生、保証するぐらいでも多くはない。被害者は原発事故以前に直ちに戻せと言いたいはずで、それがかなわなくて、仕方なく金銭賠償で換えるのであれば、他人に額を決められたくなんてないだろうし、原発で儲けた人がもらう給料より低く見積もられたくなんかもない。

だけどこのような賠償の方法が具体的に可能なのか分からないし、現法律の下ではそう簡単にできるものでもないのだろうという思いにもすぐに至ってしまう。

賠償には「税金を使ったり電力料金に上乗せしてもやむなし」と言う意見も、反対に「東電に一義的に責任があり税金なんか使ってはいけない」と言う論調も(〜東電を標的にしたい気持ちは痛いほど分かるんだけど〜)どちらもどこかむなしく感じられるのは、このように本当に責任がある人達は逃げ場を確保しているように見えるからか・・・。


〜〜〜
その(2)責任の所在

・東電は賠償の有無あるいは範囲を司法の場で争う権利はある。〜まだ争っていないけど法治国家では当然である〜

・民間企業である東電は「国の基準とその許認可に従って原発をすすめてきた」と言う権利はある。〜たぶん権利はあるだろう〜

もし賠償を司法の場で争うことになってしまった場合、司法は当然、法的な根拠だけに基づいて裁くことになる〜世論や感情に流されることなく。このような場合に司法の場でよく争われる「過失の予測可能性」について考えをしぼれば、、

1. 司法が「東電は事故の予測が【可能】だった」と判断すれば東電の責任になる。が、予測が【可能】だったとしても、東電が国の認可基準にのっとっているとする主張が通れば、国も責任を免れ得なくなる。国の政策は私たちの選挙による議員により成り立ち、結局は国民にツケが廻され、賠償は税金からの捻出となる仕組みだ。(〜もちろん国民はその多数がずっと騙されてきたし、原発を作ってまで電気がほしいなどと言った覚えもないのだから責任などないのだけれど〜)

2. 逆に、司法の判断が「東電の予測が【不可能】な天災が事故の原因だった」と判断すれば、この場合も東電の責は免れる。ようするに「どちらにしても、うやむやにされかねないような状況」に閉塞感を感じる。

先に書いたように責任は「原発を推し進めてきた面々」にあり、東電だけをスケープゴートにするのは実は「原発を推し進めてき面々」の思う壷であり、いやむしろこの二者択一かのように世論誘導しているのは、官民一体のこの「面々」なのではないかと言う気もする。

今のところは国民感情に配慮するふりをしてか、事態は司法に持ち込まれることなく、国の委員会の下に「想定を超えた」という言い訳に基づいて賠償の範囲を検討しているようではある。しかし国、官僚、天下り、経済産業会との関係の中で、裏側では、な〜な〜、どろどろ、なのは想像に難くない。ましてや「どちらにしても、うやむやにされかねないような状況」という論理が裏側にあることを考えればなおさらだ。

原発を推し進めてきた面々も、東電だけに責任があると言った態度をとりながら、裏側では東電に喉元を剣で突きつけられているような状況。「○○屋、お前も悪よの〜」「いえお代官様ほどでは、」「悪いようにはせんから今回の責任はおぬしが、、、」と言った具合。


〜〜〜
その(3)責任の所在の法制度

原発事故からまだ日が浅い頃のテレビ、「どうしてこのような事故が起きたのか、どうすればいいのか」と言うアナウンサーの質問に対して、「個人としては責任を逃れ得るサラリーマンや政治家にまかせず、代々行う行為に責任をもつ貴族のような人が管理するなどの方法をとる」などと言う、その時は非常に無責任と感じた意見を述べた原発専門家がいた。

内田樹氏のブログに【荒ぶる神の鎮め方】という、原発を神殿にと捉えたヨーロッパについて説く本人おおまじめな言説。

これらの意見にはちょっと荒唐無稽に捉えられかねないところもあるのだけれど、共通して「末代まで責任を負わせる」形式の必要性を説いているようにも感じられる。(〜核の何万年というタイムスパンを考えると、たかだか千年、二千年ぐらいのお話に終始するのでは問題にならないのだけど〜)

これらの意見を法治国家において具体的に置き換えて考えてみれば次のような制度に通じるのかも知れないと思った。つまり原発を推進する人達は、原発事故が起こった場合、「法人に所属しようが個人であろうが関係なく、末代までその全存在と全財産をもってこの責任を償う」と言うような法律をつくるようなことに。

推進派の人達は原発は安全であり絶対に事故は起きないと主張するのだから、進んでこれに賛成するはずなのだが、果たしてどうだろうか。(〜と、ここまで書いてこれは広瀬隆氏の『東京に原発を』と同じ論理であることに気づく〜)


〜〜〜
その(4)既に起こってしまった現実

「絶対に事故は起きない」と喧伝してしてきたと言うのは、裏を返せば「絶対に起こってはいけない代物だ」ということを認識してのことであるはずだ。が、「起こった。」これはどういうことを意味するのか。

原発反対派は、推進派がいくら安全だと言っても、起こってしまってからでは遅いから反対していたところがある(〜これ以外にも反対する理由はたくさんあるのだけれど〜)。ここに反対派の主張(〜起こってからでは遅い〜)と現実(〜すでに起こってしまった〜)との間の、容れない矛盾に気づき途方に暮れてしまう。

事故後に一時帰宅する被害者をテレビで見た。防護服に身をつつんだその集団の白装束が、不覚にも新興宗教集団に見えてしまった。もちろん悪気があって揶揄している訳では決してなく、むしろ何故だか涙がとまらなくなった。 故郷を奪われてなおけなげな人を思い、この非現実な映像が日本かと。

原発がぶち撒いた毒はサリンの何万倍ぐらいに相当するんだろうか。換算できる代物ではないのだろうけどサリンを撒いた人の死刑は確定している。


〜〜〜
原発に反対する人を「非現実的な夢想家」とする権益誘導による風習。だけど日本をこれほど非現実的な状況に至らしめた原発を目の当たりにして、それを賛成する論理を、私は理解できない。もうみんな現実的なふりをする必要も論理もない。一昨日、新宿で「6.11原発反対デモ」を応援した。

6.11demo.jpg


posted by がは at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:

この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/45980380

この記事へのトラックバック